北陸新幹線が走る富山駅から路面電車で南下すること約20分。古く使い込まれた駅舎が印象的な南富山駅周辺に広がるこのエリアは、昔懐かしいような、それでいて現代的でもあるような、新旧入り交じる独特な空気をまとっています。この連載では、そんなチグハグなまち・南富山をフィールドに「このまちだからこそできること」に挑戦する多様なプレイヤーたちをご紹介していきます。
その第一弾として、南富山で活動するクリエイティブユニット「Light & Gate」の種昻哲さん、ナミエミツヲさん、高木亮太さんにインタビューしました。
第3回目は、物流の最適化を支援するTSK株式会社、代表取締役の高木亮太さんです。1939年に富山で創業した同社の経営を父から承継。学生時代に始めたフラメンコで培ったクリエイティビティを生かし、地元・南富山のまちづくりにも力を注いでいます。東京、スペイン、ベトナム……さまざまな土地で暮らした経験を持つ高木さんのこれまでの歩みと、南富山での活動についてお聞きしました。
「やるときはやる」子ども時代。興味を持ったらすぐ行動
ー高木さんは、生まれも育ちも富山県ですか?
高木:そうですね。5歳くらいまで名古屋にいた時期もありましたが、戻ってきて高校を卒業するまではずっと富山で育ちました。
ーどんな学生時代でしたか?
高木:こないだふと思い出したんですが、小5くらいのときにつくった自分のスローガンが「高木だってやるときはやる」だったんです(笑)。普段は宿題とか忘れることもしょっちゅうだったけど、やる気スイッチが入るとガッと走り出す。そういうタイプの子どもでした。
ー当時の印象に残ってるエピソードはありますか?
高木:小6のとき、アマチュア無線にハマっていました。クラブの仲間が4級の資格を取って満足する中、自分だけは「その上の3級も取りたい!」と一人勉強して。学校の授業を抜け出して、金沢の会場まで特急とバスを乗り継いで受けに行きました。あれはちょっとした冒険でしたね。
ー小学生のときからすごい行動力ですね!
高木:中学の頃、四国まで一人旅したこともありました。高校の合格発表を見に行って「受かってるわ」と確認した足でそのまま(笑)。ユースホステルガイドや青春18きっぷの時刻表を使って調べながら、高知から愛媛まで行ってフェリーで帰ってくる予定を組みました。
ーご両親は心配しませんでしたか?
高木:特に心配も反対もされなかったですね。父は「四国に行くなら坂本竜馬の像を見てこい」みたいな感じでした。
ーその後、進路はどのように決めたのですか?
高木:人からSFC(慶応義塾大学 湘南藤沢キャンパス)を勧められて、父と見学に行ったときに「ここだ」とピンときて決めました。すぐに受験科目を調べて英語に勉強を絞り、1限から6限目までずっと英語の勉強をしてました。
ー先生に怒られませんでした?
高木:怒られました。無事合格して、電話で報告したときは3秒くらい絶句されました。絶対ダメだと思われていたみたいですね(笑)。
ーやると決めたら没頭する力がすごいですよね。
高木:「ちょっと考えようかな」だと絶対やらないとわかっているので、自分のアンテナに引っかかったことに関してはすぐに決めて行動していました。父からは「お前はなんでそんなに生き急いでるんだ」と言われましたが。
フラメンコに打ち込み、本場スペインへ
ー大学時代には、日本のフラメンココンクールで優勝されているそうですね。
高木:卒業制作の代わりに受けたら優勝してしまって。フラメンコは大学から始めたんですが、ほかにもサークルには10個くらい入っていました(笑)。
ー10個も!?
高木:バスケ、ストリートダンス、バンド、ロック研究会……音楽系が多かったですね。仲間と駄弁って気が向いたら練習するというような、ゆるい活動のほうが長続きしました。
ーフラメンコもそのひとつですか?
高木:そうですね。最初はあまり行ってなかったんですが、「絶対に来たほうがいい」と誘われた夏合宿に参加したときに、カホンという打楽器に出会って、自分で楽器を買って舞台で演奏するうちに、じわじわと踊りの面白さにも気づいていきました。
ーそこから本格的に取り組むようになったのですね。
高木:サークルだけだと上達しないので、プロのフラメンコダンサーに直接お願いして、マンツーマンで指導を受けました。「これやってみて」と踊りを見せてくれるんですが、目の前で何が起きているか全然理解できないんですよ。ビデオに撮らせてもらって毎日それを見返しながら練習して、半年くらいかけて一曲踊れるようになりました。
ー地道な積み重ねがあったのですね。
高木:1年半ほど経った頃から新大久保のショーレストランに紹介してもらったり、別の場所でも声をかけられたりするようになって、毎週末、躍りに行っていました。
ー卒業後のことはどのように考えていたのですか?
高木:普通に就職するつもりだったんですが、最後のライブで共演したスペイン人から「お前の踊りはすごく良いけど、スペイン人のコピーでしかない」「自分の踊りを探せ!」と言われてハッとなって。就職はやめて、スペインに行くことにしました。
ースペインにはどれくらい行っていたのでしょう?
高木:日本と行ったり来たりしながら1年ほど。父は富山に戻ってきてほしいようでしたが、周囲の説得もあって、行くなら世界で最も権威のあるコルドバのコンクールを目指そうということで納得してくれたんです。
ー優勝したら世界一ということですよね。
高木:ただ、結果は予選落ちでした。「3年後は決勝に行けるかも」という手ごたえはあったんですが、そんな時に父から「そろそろ帰ってこんか」と国際電話があって。帰省して話し合いをして、富山でTSKに入社することを決めたんです。
TSK株式会社
まちづくりに見い出した未来。キーワードは「共創」
ーTSK入社後はどんなお仕事を?
高木:ベトナムに支社をつくるため、2013年から現地で3年半ほど暮らしました。そこで自分なりの仕事のやり方を確立していった感じでしたね。
ーどんなやり方ですか?
高木:テレアポをかけまくって、ガンガン営業していくみたいな(笑)。ベトナムではそのやり方がうまくいって3年目で通年黒字になったんですが、日本に戻ってからはどうも周りと反りが合わなくて。ある時、ほかの人のやり方に任せてみたらすごくうまく仕事が回りだして、そこから仕事に対する意識が変わり始めました。
ーそんな中で南富山のまちづくりに取り組むようになったきっかけは何かあったのですか?
高木:ベトナムから戻ってきて実家のある南富山に住み始め、まちづくりの会にも参加するようになりました。
そんな時、駅周辺の空いた土地をこのままにしておくのはもったいないということになり、キッチンカーを呼ぶイベントを企画したんです。コロナ禍でイベントが軒並みキャンセルになってキッチンカーの人が困っていたのでテイクアウトマルシェを開いたら、それが大盛況でした。
ー手ごたえがあったのですね。
高木:周りの活動を見ていても、地方/都心、中小企業/大企業関係なく、まちづくりというのが次の時代の向かう先なんじゃないかという直感があって。どんどんのめり込んでいきましたね。
ーほかにはどのような取り組みを?
高木:駅前にある北陸アート院の建物に、世界を舞台に活躍するチチフリークさんに壁画を描いてもらいました。2022年3月には、その巨大壁画の前で「TOYAMA SOUTH WIND FESTIVAL 2022」を開催。屋台村や地場野菜のマルシェを開き、ステージではフラメンコライブや地元の子どもたちのパフォーマンスも行いました。延べ4,000人ほどが来場してくれました。
ーかなり大規模なイベントだったのですね。まちづくりに対しても高木さんの「やるときはやる」スイッチが押されている状態ですか?
高木:そうですね(笑)。一方でそのイベントをしたときに「勢いだけでは限界がある」とも気づいたんです。やり方には工夫が必要だし、時間をかけて積み重ねていくことが大事だと。ちょうどそんなタイミングで種昻さんやナミエさんが南富山の活動に加わってくれました。
ー良いタイミングでの出会いだったのですね。
高木:これからは、自分がやりたいことをひとつのビジョンとして示して仲間を増やし、参加している一人一人が幸せになれるようにサポートしていけたらと思っています。
ーこれまでとはモードが変わってきているのでしょうか?
高木:今のテーマは「共創」です。フラメンコのように、踊り手や歌い手、ギター……誰が主役というわけでもなく、誰か指揮者がいるわけでもない。自然発生的で即興的だけどめちゃくちゃまとまっている。そんな時に爆発的にエネルギーが高まるあの感じを、会社経営でも、まちづくりでも、やっていきたいです。