北陸新幹線が走る富山駅から路面電車で南下すること約20分。古く使い込まれた駅舎が印象的な南富山駅周辺に広がるこのエリアは、昔懐かしいような、それでいて現代的でもあるような、新旧入り交じる独特な空気をまとっています。この連載では、そんなチグハグなまち・南富山をフィールドに「このまちだからこそできること」に挑戦する多様なプレイヤーたちをご紹介していきます。
その第一弾として、南富山で活動するクリエイティブユニット「Light & Gate」の種昻哲さん、ナミエミツヲさん、高木亮太さんにインタビューしました。
第2回目は、sky visual works inc.代表のアートディレクター・ナミエミツヲさんです。広告業界からキャリアをスタートさせ、長年、東京で映画やファッションを中心としたグラフィックデザインに携わってきました。2015年に恵比寿に構えていた事務所を引き払い、富山に拠点を移したナミエさんに、移住するまでのいきさつや仕事に生まれた変化、南富山との関わり方などについてお聞きしました。
渋谷カルチャーに影響を受けた学生時代
ー ナミエさんはご出身はどちらですか?
ナミエ:埼玉県生まれです。川口市内で中高時代を過ごしました。
ーどんな学生でしたか?
ナミエ:高校時代はバレーボール部で真面目に活動していたのですが、帰宅部の友達に誘われて渋谷のクラブに行ったりもしていましたね。
ークラブですか!
ナミエ:正直に言うと、そこで出会った大学生たちがあまり尊敬できるような人たちではなくて。「大学生ってこんな感じなんだ」「大学生にはなりたくない」と、そこにいる人たちだけを見て思ってしまったんです。それで、早く独り立ちして働こうと専門学校に行くことにしました。
ー当時、やりたいことは決まっていたのですか?
ナミエ:小さい頃から祖母に「手に職をつけなさい」とよく言われていたこともあって、高校2年くらいでデザイナーを目指そうと決めていましたね。
ーさまざまな選択肢がある中で、なぜデザイナーだったのでしょう?
ナミエ:音楽やカルチャー系のことには興味があったし、仲の良い友達もそういう人が多かったんです。そんな中で得体の知れない「デザイナー」という存在を知り、美術系を目指そうというモードになったのだと思います。同じ高校に通っていた姉が勉強面でとても優秀だったので、同じ道は歩めないと思ったのもありますが。
ーそれで美術系の専門学校に進んだのですね。
ナミエ:そうです。ヘンテコな人たちがたくさんいましたよ。ファッションで自分のポリシーを表現したり、キャラクターづくりを大切にしているような。それまでは渋谷で見かけている人たちくらいしか知らなかったから、「こんなに色々な人がいるんだ!」と驚きました。
ー影響を受けた部分もありましたか?
ナミエ:というよりも、カルチャーショックでしたね。僕自身は地味な方だったので、埼玉から出てきた世間知らずでファッションもイケていない、だけどちょっとおもしろいヤツ、みたいな存在だったと思います(笑)。
デジタル黎明期にデザイナーとして腕を磨く
ー卒業後はどんなお仕事を?
ナミエ: 企画会社に営業職で入ったのですが、終電を逃して親に迷惑をかけてしまうような毎日だったこともあり、半年ほどで辞めました。でも、その会社の先輩がすごく仲良くしてくれて、辞めてからも「どうしてる?」と電話をくれたりして。その人が広告の制作会社にデザイナーとして入るタイミングで、「お前も来い」と拾い上げてくれたんです。
ー良い出会いがあったのですね。
ナミエ:まあ、そこから地獄の下積み時代が始まるわけですが……。
ー地獄だったのですか?
ナミエ:当時、デザイナーの仕事には職人としての要素が色濃く残っていたんです。ロットリング(製図ペン)で0.1ミリの線を引いたり、平行や垂直を正確に出したり、ロゴマークやレタリングの仕上げをしたり……それが少しでもズレていたり、雑な仕上げが見つかったりすると怒られていました。
ー精緻な技術が求められたのですね……!
ナミエ:その経験は今でも僕の後ろ支えになっています。数年後、Macが導入されてからは、「デジタルをどのように使っていくか」を考え始めることになります。
ーデジタルがデザイン業界に入ってくるまさに黎明期だったのですね。
ナミエ:「これはヤバいぞ」と思いましたよ。指定すれば簡単に0.1ミリの線が引けるんですから。職人としてのデザイナーの仕事は必要なくなる。素人でもデザインができるようになるぞ。そんな危機感とともに業界を渡り歩いてきた気がしますね。
ーずっと広告のお仕事をされていたのですか?
ナミエ:その後は、映画配給の制作会社から声をかけられて、映画のポスターなどのデザインを手がけました。思い描いていたようなグラフィックデザインの世界だったので、本当に面白かったですね。映画作品を自分なりの感性で解釈して自己責任で表現する。それは広告業界ではできないことでしたから。
ーグラフィックデザイナーとしてのセカンドキャリアが始まったわけですね。
ナミエ:でも結局、また広告の世界に戻るんですけれどね。最初の広告制作会社の先輩で仲良くしていた方から、大手プロダクションに入るから「お前も来い」と誘われて。
ーいろいろな人から「お前も来い」と言われていますね(笑)
ナミエ:本当に(笑)。当時は意識していなかったですが、すべてが人との縁でつながっています。
ー独立を決めたのはどんなタイミングでしたか?
ナミエ:全国規模の仕事やファッションブランドの仕事を手がけ、アートディレクターとして仕事をまわせるようになったなと思えたタイミングでした。恵比寿に事務所を借りて、妻と二人でsky visual works inc.を立ち上げました。そこからは「広告の仕事はやめる」と宣言して、ファッションブランドのカタログなどアパレル系の仕事と、WWDやJUNONなどのエディトリアルデザインをメインでやっていました。
sky visual works inc.
そして富山へ。ゼロから仕事を生み出せる魅力
ーそんな中で2015年に富山に移住されています。なぜ富山に来ることになったのでしょう?
ナミエ:僕の憧れの存在に、八木保さんというアメリカ西海岸を拠点に活動されている著名なアートディレクターがいます。環境問題に取り組む姿勢を早くから示しておられて、アートディレクターという立場でブランディングを行う第一人者でもある。若かりし頃、知り合いの伝手で紹介してもらい、お話しする機会を得たのですが、その時に言われた「ナミエくん、世界は広いよ」という言葉は忘れられません。彼のような仕事がしたいという想いはずっと持っていました。
ー「世界は広い」。示唆的な言葉ですね。
ナミエ:それからしばらくして、NPOのプロボノで参加したあるブランドづくりのプロジェクトに、「ブランドストラテジスト」という肩書きの、年下だけど、尊敬できる優秀な人がいて、団体の役員と話を詰めながら案件を取り仕切っている姿にすごく刺激を受けたんです。彼からブランドづくりの入り口を学びました。
ー八木さんやその若者との出会いで、活動の方向性がより明確になっていったのでしょうか?
ナミエ:「これからはブランドづくりだ」という、ものごとの本質や人の想いをカタチにしていくことに対する関心が強くなりました。それとは別に、私がメインに活動してきたファッションのグラフィックデザインは若い人たちが活躍するべきステージであり、歳をとるにつれて、頼む側も発注しづらくなるだろうという予測もありました。そんな状況の中で、これから小規模事業者を中心としたブランドづくりに取り組むことを考えたときに、スピード感を求められる東京ではなく、ゼロからじっくりとコトが起こせる場所を意識し始めたんです。
ー それが富山だったわけですね?
ナミエ:ありとあらゆる可能性を探る中でたどり着きました。
ー富山に来て、東京にいた頃と比べてどんな変化がありましたか?
ナミエ:やはり、ゼロスタートで仕事ができるというのが本当に大きいですね。一人のアートディレクターが「やろうよ」と言い出したことに耳を傾け、納得したら実際にそれをカタチにしようと動きだしてくれる人たちがいる。それは東京ではあり得ないことでした。「Light & Gate」メンバーもそんな仲間です。
ー例えばどんなお仕事をされているのでしょう?
ナミエ:美容と健康をテーマに村づくりを進めている立山のヘルジアンウッド、ブランドの立ち上げから関わっているアロマオイルのブランドTaromaのほか、今は魚津市の農家さんとも仕事をしています。ただ直売所をつくるだけじゃなく、プロモーションや体験ツアーで健康志向の強い都心とつなげるなど、面白い仕掛けをつくろうとしています。立ち上げて終わりではなく、継続して関わっていくことも大切にしていますね。
ー南富山エリアにはどのように関わっていきたいですか?
ナミエ:時代性もあるのかもしれませんが、真面目な活動が目立っている気がしていて。僕がかつて渋谷で受けた刺激の一部分でも取り入れて、若者が“不真面目”に楽しめるような場所をつくりたいです。そのためにはまず、富山の若者たちの気持ちや考えを知ることからですね。
ー若者と話すことで、どんどんアイデアが広がっていきそうですね。
ナミエ:東京で積んできた経験と築き上げてきたネットワークを生かして、よき伝授者として、若い人たちが生き生きと社会と関われるような環境をつくる、そのお手伝いができればと思っています。